過 去 の 出 来 事
ここは、私の昔にあったできごとを年月に関わらず、
思い出した順番に載せております。

昭和46年春の話(赴任旅行)  昭和46年春の話(赴任旅行)その2   昭和46年夏の話  昭和46年冬の話 
中学2年の頃の話 昭和56年春(長女登校拒否)の話 昭和61年秋(入院闘病生活)の話
 
昭和52年夏(死に損なった)の話 昭和55年秋(島流し)の話   ソビエト漁船寄港の話

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昭和46年春の話(赴任旅行)
20歳のわたしです。4月1日付発令により採用通知を受けた私の赴任先は、北海道根室市でした。
学生気分がまだまだ抜けきれていない私が赴任先である、
根室市へ向け車で向かったのは3月31日のことでした。
なぜ車での赴任かと言いますと、実は簡単な話なんです。
もうすでに察しのついた人もいますよね・・・
そのとおり・・・車の免許を持っていたのが私一人だったんです、我が家では。
ですから、車を置いていってもだれも使う者がいないのですから、
当然唯一の免許保有者である私が、我が家の車を赴任先に持っていくのは
ごくごく自然だったわけです。
国道12号線を北に向かって、まずは滝川へ・・・

そうそう、今では高速道路がありますけど、
当時はまだまだ一般道路を走るしか手だてがありませんでしたから・・・
赴任先までのルートとしては、札幌ー滝川ー狩勝峠ー帯広ー釧路ー根室と
札幌ー苫小牧ー富川ー日高ー日勝峠ー帯広ー釧路ー根室のルートです。
あと、襟裳岬から広尾へのいわゆる「黄金道路」を通るルートも
ないわけでもありませんでしたが、
当時の「黄金道路」は、きわめて危険なところで、
とっても初めての私に手を出せる???ルートではない、
との判断から除外しました(V)o\o(V)ふぉふぉふぉ

こうして私の赴任旅行は始まったのです・・・

昭和46年春の話(赴任旅行)その2
途中、日本一の直線である美唄市内の国道12号線を走行中のことです、
4月とはいえここは北海道なんですよね、当然まだまだ寒さは厳しいわけで、
とてもヒーターなしではいられません。なのに、だんだん車中が寒くなってきたんです。
水温計を見るとずいぶんと低いんです、「ありゃこりゃ寒いわけだ!!」と言うことで
車を道路脇に止めて点検することにしました。
どうもサーモスタットの調子が悪いようだったので仕方なく、
ラジエータの全面に、見つけたダンボールをあてがい
冷えすぎるのを防いで再び出発しました。
結果はOKばっちりでした。ふー
滝川で12号線と別れ38?号線を東に進路を変更し、いよいよ狩勝峠へ向かいました。
狩勝峠は素晴らしい天気で北海道の雄大な眺望を堪能し、帯広へとむかいました。
帯広へは約5時間で到着、ここには私の叔母がいましたので一泊することとしました。
昔、子供のころに一度来た覚えはあるんですが、
さすがにみんなの顔はすっかり忘れていました(^。^/)ウフッ
それでも、みんなに歓待してもらい酒など飲んだことと、
慣れない長時間のドライブの疲れもあり、
この日は早々に寝ました。
翌日も天気が良かったので、朝7時に出発しました、
昼ご飯用にとおにぎり2個とおかずを入れたタッパウエアを持たされて、
叔母の家族にお別れしました。
「ほんとにありがとう・・・」って心の中で感謝していました
釧路を通過し、・・・だったんですが、またこの釧路がわかりにくいところで、
山の上に迷って上がったり、方向を間違えたりと散々な思いで
やっと釧路を通過することができました。
釧路から根室までは約120キロメートル2時間のドライブです。
この間は、ほとんど人も歩いていないことから、高速道路ではありませんが、
みな100キロ以上で飛ばします。
途中の山中では、きじばと、うさぎなどが飛び出したのには驚かされました・・・
皆さんもきっとご存じだと思いますが、ムツゴロウ王国のあった浜中町を通って
厚床からはいよいよ根室半島です。
根室半島の南側が太平洋、北側がオホーツク海で、今のJR根室本線
(最近では花咲線と呼ばれているようです)が
太平洋側を、国道がオホーツク海側を通っています。
やっとの思いで根室に到着、根室駅前で迎えの車と合流し赴任先に向かいました。
職員に迎えられた私は、
もう、とにかく緊張のあまり皆さんにどんな挨拶をしたのか未だに思い出せません・・・
今年も、新社会人が間もなく巣立っていきますが、
どのような思いでそれぞれの職場に赴任するんでしょうね・・・
その日の夜、私の同僚となる若い職員で作っている独身会の歓迎会があり、
素敵な歓迎を受けました・・・
どのような歓迎を受けたのかは皆さんも経験があると思い
・・・省略(^。^/)ウフッしますね
たしか、その夜の記憶はほとんど残っていませんが、
どうゆうわけだか私が目覚めたところは全く知らない旅館の一室でした
w(゜o゜)w オオー! (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン貴方はだーれ???
これが、ここでの伝統の歓迎儀式なんだそうです・・・

昭和46年夏の話
仕事もある程度覚え、毎日の生活にも慣れたころ、私はある先輩に連れられて、
先輩の行きつけのスナックに行きました。
ここはカウンターだけの小さなスナックで・・・
そう言えば「僕が初めて君と出会った・・・・・小さなスナック」
っていう歌がありましたね・・・
関係なかったかな???(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
30過ぎのま、綺麗なママさんと27歳くらいのちょっと生意気そうな女の子??
の二人で切り盛りしている店でした。
先輩はけっこう常連のようで、ふざけながら楽しそうに会話していましたが、
私の方は飲めないくせに粋がってウイスキーのオンザロックをダブルでやってたせいか、
いつしか記憶をなくしていました_s(・`ヘ´・;)ゞ ..
翌日の昼頃でしょうか・・・
だれかに無理矢理両腕を捕まれて上半身を起こされてやっと目が覚めたのでした・・・
でも、気分は最悪・・・頭はズキズキ目はしょぼしょぼ、おまけになんだか胃袋が・・・
取りあえず一度トイレに駆け込みしばしの休憩を・・・
その日は結局、そのままママさんの家でごろごろして過ごす羽目に・・・
やっと落ち着いた夕方、「ご飯食べたらお店に行くわよ」え!!・・・
そして結局スナックへ
朝起きて、仕事を適当に済ませ昼にはママの家で昼ご飯をごちそうになって、
午後の仕事を片づけると5時過ぎにはスナックへ・・・手伝いをしながら夕食を、
そして例のウィスキーのオンザロックをダブルでやって、
12時には店を閉め近所の居酒屋でママの相手をする・・・
こんな生活をどのくらい続けたのか・・・
今思い出すと若かったハ・ハイ(°.°;)_ロ...

昭和46年冬の話
この頃の私の給料っていくらだったかわかりますか?・・・
なんと、基本給が33,500円だったんですよ、
冬って言うか年末にはベースアップがあったんですよね、この時代は
、かの田中角栄総理大臣の「日本列島改造論」がまさに実行されてたときで、
景気がきわめて良くてベースアップも30パーセントとかの勢いでした
(..)(^^)(^。^)(*^o^)(^O^)ウレシーーーー!!!
つまり、3年で給料が倍になったんですから・・・
そりゃーもう「サラリーマンはやめられない」てな調子だったんですよ・・・
話が横にすべって???しまいましたね(*^.^*)エヘッ
でもないか・・・ま、いいや
で、そんなに少ない給料のくせに毎晩遊びまくっていましたから、
当然増えるわけですよ・・・借金が・・・(;´д`)トホホ
なんたって、根室と言うところは現金よりもツケの方が喜ぶんですから、
もう当然私にとっても願ったり叶ったり、
と言うことでいよいよ首が回らなくなりまして・・・
ボーナスなんて右から左へ・・・ハイさようなら・・・でしたね(T^T)クゥー
それでも間に合わなくてずいぶんと皆さんにお世話になりました、
「あの説はほんとうにありがとうございました」
ここでお礼を言わせていただきます・・・
ひょっとして、まだ返していない先輩もいたのでは・・・
もう時効ですよねーヾ(@°▽°@)ノあはは
最後の尻拭いをしてくださった、スナックのママ・・・
今はどうしているんでしょう・・・
50年頃に家内の実家に里帰りしたときにはもう店がありませんでしたね・・・
ご愁傷様でした

中学2年の頃の話
私が住んでいた札幌市の白石町(後に札幌市が政令指定都市となったとき白石区となる)
には、当時でも数多くの中学校があった、
その中で町名と同じ白石中学校が私の母校である。
別に自慢でもなんでもないが、
当時の私にとっては優越感に浸ったものですw(^_^)ン-?ナニナニ
そんな中学校生活の中でも最も鮮明に記憶していることがあります。
私には、同じクラスの女の子でつき合っていた子がいました、
ここでは仮名として「悦子」としますね、別に今風な男女の交際??ではなく、
いたって健康的で明るい交際でした・・・(-_-;)ホントカ・・・オイ
その子が好きという訳でもなくただなんとなくいつも一緒に行動していた、
そんな交際でした。
今の子供達には理解できないかも知れませんがね
好きなレコード・・・今で言うCDですねー・・
をお互いの家で聞いたり、一緒に宿題をやったり
時にはご飯をごちそうになったこともありました。
実は、本当に好きな子は別にいたんです(^○^)・・・

ある日の教室での話なんですが、仲の良い5人の友達の間で
「好きな女の子の名前を書こう」ってことになったんです。
私は、真面目??(-_-;)ホントカ・・・だったもので、
つい本当に好きな女の子の名前を書いたんです。
たしか「美子」だったと思うんですけど。
そうしたら、他の4人は白紙だったんだねー_・)ソォ-ッ・・・
すっかりはめられてしまったんです
それを4人が大きな声でクラスのみんなに言ってしまったんです・・・
おまけに黒板にまで書かれてしまって、そりゃーもう恥ずかしいのなんのって
顔から火が吹き出たようなそんな思いで教室を飛び出したものでした
・・・・°°・(>_<)・°°・。
こんな恥ずかしい思いをした経験ありませんか???

そんな私を慰めてくれたのは、やっぱり悦子さんで、それからも私の一番の理解者でした。
(..)(^^)(^。^)(*^o^)(^O^)ウレシーーーー!!!
中学校を卒業してからは、お互いに通う学校が遠く、
滅多に逢うこともなくなりましたね(;_;)シクシク
あの頃には思ってもいませんでしたが、この悦子さんが私の初恋だったように・・・
今振り返ってみるとそんなふうに思えてなりません・・・
ありがとう悦子さん・・・今はきっと最愛の子供達に囲まれて幸せになっていることでしょうね

昭和56年春の話

北海道出身の私ですが、どうゆうわけか東北の山形県に転勤となったのは、
昭和54年4月のことでした。
初めての東北地方での生活を経験し、やがて2年を経過した55年の春、長女が小学校へ入学。
小学校へは、約2キロほどを歩いての登校でしたが、地域の高学年の児童がみんなをまとめ
先頭と最後尾に6年生が引率するかたちでのいわゆる集団登校でした。
初めのうちは集合場所に連れていっての登校でしたが、やがて一人で家から出かけるようになり、
親としてはやれやれという気持でほっとしていたものです。
ところが、10日ほどたったある日、「お腹が痛い」と言い出したのです。
その日は大事をとって休ませました。
ところが、翌日になって登校時間が近づくにしたがって長女の様子がおかしい!!
ランドセルから物を出し始めたのです。
「もう時間だよ、早く用意して行かないと・・・」と言っても・・・
なかなかくつも履こうとしない・・・おかしいなーと思いながらも無理に靴を履かせ
みんなの待っている集合場所に連れて行きましたが、みんなの顔を見たとたんにぱたっと
足が止まってしまうんです・・・理由がわからないまま約1ケ月ほど経過しました。
もちろんその間集団登校はできず嫌がる長女を車に乗せ、むりやり学校へ送り届ける
毎日でした。
学校の玄関で泣き出して困ったこと、うずくまったまま決して動こうとしなかったり
それはそれは親の方が泣き出したくなる日々でした。
学校での様子を先生に尋ねても、特別いじめを受けてる様子はないとのこと、登校拒否の
理由が先生にもわからないようでした、勿論長女に聞いても何も話してはくれませんでした。
そんな5月の初旬のことです、私の妹の結婚式が札幌であり、家族全員で出席することに・・・

札幌から帰っての最初の登校日、いつものとおり私が出勤前に車で学校へ送ろうと
用意していたときのことです「お父さん今日はみんなと学校に行くよ!!」って言ったんです
私と家内があっけにとられていると、長女が自分で靴を履き「言ってきます・・・」
と元気に出かけました。
それからは、今までの登校拒否が嘘のような長女の行動に、
訳がわからないままではありましたがほっとし、思わず嬉泣きしたものでした。
その後、長女が高学年になったある日にそのことを尋ねてみましたが、
本人も覚えていませんでした。

翌昭和57年、宮城県に転勤となり長女も転校することに・・・思い出されたのは言うまでもなく
あの登校拒否のことです。爆弾を抱える思いで新しい学校へ・・・ところがところがです
嘘のような話ですが、全く登校拒否などという行動はとらず、むしろ新しい友達や学校が
めづらしいかの様子・・・
理由は未だにわからない登校拒否でありましたが、私にとっても貴重な経験だったと・・・

昭和61年秋(入院闘病生活)の話
昭和61年4月、宮城県塩釜市から青森市へ転勤となった私は、
まず病院へ行くチャンスを伺っていた。
なぜなら、塩釜にいたころからの話なんですが、いわゆる口内炎に苦しんでいたからなんです
舌の付け根付近に出来た口内炎が一向に良くならない・・・
浸みるような痛みにとうとう市立病院へ・・・
ところがここでまず悩んだのは、果たしてどこの科へ行けばよいのかです・・・
口のなかのことなんでとにかく耳鼻咽喉科へいくことにしました。
ずいぶんと混んでおり、約3時間ほど待っての診察となりました。
どこの病院でもそうなんですが、なぜこんなに混むんでしょうね!!
ほんとであれば一時でも早く診察を受け、楽になりたいと思って診察を受けに
皆さん来てるはず何ですよねー
それなのに・・・と言うことでやっとの思いで診察を受けることに・・・
ところがなんと医者が診察しながらくわえたばこなんですよ、
驚きましたねーw(゜o゜)w オオー!
ま、ともあれ診察を受け、その日は組織の一部を採取、検査結果は一週間後と言われて
帰りました。
それにしても、診察中の医者がくわえたばこなんてのは聞いたことがありません。
投書しましょう!!
さて、一週間後の検査結果は、と言いますと・・・教えてくれませんでした。
いきなり「紹介状を書きますので、県病へすぐに行ってください」でした。
その足で県病へ行きましたが、「すぐに入院手続きをとってください」んんん??
ちょっと待って・・・いきなり入院なんて・・・
訳もわからない内に入院手続きをとらされ、
「奥さんを呼んでください」って言うんですよね。
そんなこんなで結局入院し、その後手術、投薬治療と続き、やがて退院
その間病名はついに教えてもらえませんでしたが、看護婦の話や医者の対応から
病名はおおよそ推測できました。
退院後は、通院加療を続け12年後の春、転勤を機会にやっと医者から解放されました。
今では舌がんを克服したとの思いで少しでも長く人生を謳歌したいと考えています。

昭和52年夏(死に損なった)の話
それは、ちょうど昼休みの時でした。
事務所の近くのある役所の食堂で昼食を済ませ、戻ってきた直後の電話
「すいません、工事中にケーブルを切断したみたいです」と
それは、ある建設業者が防波堤を工事中にコンクリートをはつっていて
埋設していたケーブルをコンクリートピックで切断したとの情報でした。
仕方なく、上司と二人で現場に出かけました。
現場で、業者さんから状況の説明を受けた後、上司の命令で事故の箇所を確認するために
片手にカメラ、片手に測定器を持って防波堤を歩いていたときでした、
いきなり大きな波が防波堤を越えて私に襲いかかってきたのです。
以前に先輩から、どこかで大波にさらわれて殉職した職員の話を聞いていましたので、
そのとき聞いた話のことがどうゆうわけか頭の中をかけめぐりました。
当然波に押し倒された私は、なすすべもなく波に流されやっとの思いで防波堤の端に
止まることができました。次の大波がくる前に逃げようと必死に立ち上がり血がにじむ
膝を抱えながら、カメラと測定器を拾ったのを今でも覚えています。
カメラと測定器は塩水にさらされたために使い物にならなくなっていましたが、
そのときは、逃げることよりもカメラと測定器が大切に思えたのが不思議です。
今考えると、おそらく当時そのカメラと測定器が非常に高価だったからかも知れません。
とにかく必死になって拾い集めている自分の姿を想像しては、「なんて馬鹿な奴だ」と
笑っていられることに感謝しています。

昭和55年秋(島流し?)の話
山形県酒田市に赴任して2年目だったと記憶しています。
ここで、長女を地元の隣接する二つの町内会で運営している保育園へ入れました。
いわゆる無認可保育園で、町内会長が園長で、町内会の役員が運営委員という保育園で、
保母が三人の小さな保育園でした。
当然、貧乏保育園のため役員をしている父母が中心となって、
色々な行事を行っていかなくてはなりませんでしたが、それも楽しい思いでとなっています。
ほとんどが地元の子供達で、私のところを含めて数人がいわゆるよそ者でしたが
地元の人たちは、快く受け入れてくださり、とっても楽しくいい想い出を作ることができました。
特に、開園50周年でもあったことから、記念誌の発行と記念式を秋に行うこととなり、
委員でもあった私は、ほとんど毎晩保育園に行き、記念誌の発行に向け、
打ち合わせやら準備に精一杯打ち込んでいたものです。
決して、重荷とは感じることなく、歴代の保母や園長の調査と資料集め等々も大変では
ありましたがとっても面白い作業として取り組み、実に半年をかけて作りあげました。
それらの準備もほぼ終え、3日後にはいよいよ記念式典を迎えることと成った日、
急遽定期船で2時間の離れ小島へいくこととなりました。
通常であれば一泊二日の予定で完了する仕事ではあったのですが、島に渡ったその晩から
何と大時化になり、定期船が欠航となってしまい、そのまま一週間も島に閉じこめられてしまいました。
当然、記念式典には出席できず、島の中で悶々として過ごしていました。
やっと海上が凪ぎ、定期船の運航が開始され戻ってきましたが、このときほど離島の大変さを
痛感したことはありませんでした。
悔しさと、退屈さが今でも忘れられません。

ソビエト漁船寄港の話(昭和60年)
当時、日本と旧ソビエト連邦では、漁業協定を結びその中でソビエト漁船の日本への寄港が認めるととなった
記憶にも薄いことではあるが、福島県小名浜が最初の寄港地であったように覚えています。
何度目かの寄港地に指定されたのが、宮城県塩竃港であります。
ここは、日本三景松島で知られる松島湾に隣接した天然の良港であり、東北最大の都市仙台の海の玄関
仙台港をも含んだ重要港湾と漁港を兼ねています。
俗に仙台港と呼ぶ港は、実際には、塩釜港仙台港区と言うのが正式名称である。
で、ソビエト漁船に寄港地として解放した地区は、いわゆる定山堀地区と呼ばれる港湾施設で三本の橋で
行き来する離れ島のようなところである。
したがって、三本の橋を封鎖することにより完全に孤島となる地域である。
しかしながら、そこには港湾合同庁舎があり、海上保安庁の第二管区海上保安本部、塩釜海上保安部などの
海上保安庁の部署が4部署と運輸省海運支局、横浜税関、植物貿易事務所などの国の機関や石油備蓄などの
施設があり、更に、公共のアパートが二棟、民間借家などが多く存在しており民間人も小学生だけでも100人を
越えて住んでいるところでもありました。
実は、私もその中で生活している一人でした、あはは
って、笑ってはいられないません。
三本の橋には、宮城県警の機動隊(実は、本来の機動隊員のほかに田舎の駐在さん等が多く応援に??
が、バリケードを築き厳しく警戒と警備に当たっていた。
と、云うのは、全国各地からいわゆる右翼が宣伝カーで大挙して集結していたからである。
我々には、通行証が与えられ、通行のたびに警備の機動隊員に掲示して通行するのである。
もちろん、子供達は、集団登下校とし父兄が送迎することとなった。
実は、私が子供会の会長をしていたため、私自身、朝にはゲートに出向き子供達の安全を確認するのが
日課となっていました。
ゲート付近では、全国から集結した右翼が、盛んにスピーカーの音量を最大にしての宣伝活動を行っていた。
警察官と何やらもめることもしばしばで、情けないことに右翼の連中に警察官が引きずり回される光景もあった。
何故かというと、田舎の駐在さんが多く、右翼とのやり合いに慣れていないらしく、ムキになってるのを見るのも
けっこう面白かったように記憶しています。
そんなことがあったりして、やがては右翼の連中とも顔なじみになったものです。
子供の中には、右翼の連中とふざけ会う者まで現れ、ソビエト漁船の最後の寄港の時には
みんなで、手を振ってお別れしたものです。


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